非暴力旅行記

1995年中米一周の旅に出る30、モンテベルデの雑木林を歩く。NO,4(by 堀昭夫さん)

非暴力
くどいようだが、もう1回、宿近くの風景を展示する。
ガイドブックによるとこの地はアメリカのアラバマ州から移住してきたクエーカー教徒達が、守り育ててきたという事だ。
彼らはキリスト教徒の中では極めて少数派(マイノリティー)で、平等、非暴力、平和を徹底して実践し、アメリカでは女性解放、奴隷解放、人種差別の撤廃などに尽力してきたらしい。
現在でも米軍のイラク侵攻、支配に抗議を続けているようだ。
なるほど毎日宿周辺、自然保護区などを歩き回ったが、彼らの虚飾の無い質素で実直な人間性は良く伝わってきた。
<花のクローズアップ写真は、随時新しい写真をアップしながら
  • http://akio-h.blog.ocn.ne.jp/blog/
  • に展示中です。私の個展案内、新聞記事なども展示していますのでこちらも御覧下さい。>

    【旅行時期】1995/12/05~1995/12/09
    【エリア】モンテベルデ自然保護区
    【テーマ】ひとり旅
    【投稿者】堀昭夫

    アメリカ旅行記(7):2月26日(1):ワシントンD.C.へ、国会議事堂、ホワイトハウス(by 旅人のくまさんさん)

    非暴力
    <2006年2月25日(土):アメリカ時間>

     ワシントンDCの見学が、今回旅行のハイライトの1つとなりました。待合せのペンシルバニアホテルが6時半の約束でしたから、5時15分にはホテルを出発しました。早朝からの中身の濃い半日小旅行です。

    <早朝の出発、待ち合わせのホテルへ>
     昨日の内に、待合せ場所の下見をした結果、タクシーは呼ばずに現地まで歩くことにしました。その時間を30分と読みました。それで、途中で朝食をとることにし、マグドナルドのお店に入りました。店の中には、ここで夜を過ごしたらしい人達が何人かいました。注文したのは、ハンバーガーとホットコーヒーのスモールサイズです。
     セルフサービスの水がありませんでしたから、熱い思いをしました。太いストローで注意深くコーヒーを飲んだつもりでしたが、想像を超える熱さでした。余り熱くて、皆さんも、半分程は残されたようです。

    <電車でワシントンDCへ>
     待合せのペンシルバニアホテルには、時間少し前に到着しました。現地ガイドさんに6時45分発のチケットを入手して貰い、ここでお別れしました。ワシントンDCでは、別のガイドさんが出迎えてくれる手筈です。始発駅でしたから、最初は空いていました。ワシントンDC駅まで、約3時間の列車の旅です。途中からは、次第に満席になってきました。
     ワシントンDCの表記は、ワシントン州と区別するためです。DCはコロンブスに因む『The District of Columbia(コロンビア特別区)』の略です。
     入り組んだ海岸線か、湿地他のような場所を長く走って、終点駅に到着しました。終点駅の少し手前には、ワシントン空港駅がありました。

    <最初に国会議事堂見学>
     ワシントンDC駅では、ペンシルバニア駅でお別れしたガイドさんが教えてくれた場所に、案内のガイドさんが待っていてくれました。ツアー参加者は、私達3人を含めて7名でした。ワゴン車での見学です。最初の見学地の国会議事堂のことを、少し紹介しておきます。
     ウィリアム・ソーントンが設計し、1793年に着工、1800年11月に完工しました。その後、増改築が行われ、長さ250m、幅115m、部屋数540余りの規模となりました。上院は6年任期の100議席で、その1/3が2年ごとに改選されます。下院は、435議席が州の有権者数で配分され、任期は2年です。全員が改選され、2回に1回は大統領選と重なります。

    <ホワイトハウス>
     ホワイトハウスは、アメリカ合衆国の大統領とその家族が住む官邸です。転じて「アメリカ合衆国政府」のことを指す事もあります。その名前の由来から紹介します。現地ガイドさんも同じことを話されていました。
     ホワイトハウスは、米英戦争で1812年に被害に遭い、外部を残して焼失しました。その復興工事の際、一部を除く外壁が白く塗られ、ホワイトハウスと呼ばれるようになりました。
     その後、増改築が繰り返され、現在は4階建て132部屋あり、地下には核シェルター機能を持った作戦司令本部があります。屋上ではシークレットサービスの狙撃手が24時間待機しています。内部の見学コースもありましたが、9・11以降は、警備が厳しくなっているようです。
     9・11同時多発テロでは、ニューアーク発サンフランシスコ行ユナイテッド航空93便がハイジャックされ、ワシントンDCに15分の場所で墜落しました。ホワイトハウスが標的にされた可能性があります。政府は、公式には否定していますが、戦闘機に撃墜された可能性もあるようです。
     車の乗り入れが厳しく規制されていますので、少し離れた場所へ駐車しての見学でした。

    <リンカーン記念堂>
     第16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して、1922年に建てられた白亜のギリシャ神殿風の建物です。椅子に座った高さ5.7メートルのリンカーン像が据えられています。歴代大統領で、最も背が高かった人です。リンカーンは1863年、奴隷解放を宣言しました。民主主義の理念を貫きましたが、1865年に暗殺されました。
     像に向かって左側の壁には、ゲティスバーグで行った有名な演説、「人民の人民による人民のための政治」という名言が刻まれています。演説の最後に近い部分です。
    注意して見ないと、見落としますが、この場所で演説を行ったマ マルティン・ルーサー・キング牧師の『アイハブ ア ドリーム』の文字が石面に刻まれています。非暴力で黒人民権運動を指導した彼もまた、1968年暗殺されました。
     記念堂の前には、リフレクティング・プールと呼ばれる細長い池があります。高いワシントン塔の全長を、この池に映すことができます。

    <朝鮮戦争、戦没者碑>
     朝鮮戦争は、1950年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破したことに始まります。
     6月27日、国連安全保障理事会はソ連が中国政府認証問題に抗議して欠席中に、『北朝鮮弾劾決議』を採択、韓国を防衛するためアメリカ軍25万人を中心としてイギリス、オーストラリアなども加わった国連軍を結成しました。
     当初、劣勢だった国連軍は、9月15日、マッカーサー元帥が仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪還しました。10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破しました。更に、中国の周恩来首相の警告を無視し、10月9日、国連軍も38度線を超えて進撃しました。
     参戦には消極的だった中国も、北朝鮮の金日成主席の要請を受けて義勇軍を募って参戦しました。最前線だけで20万人規模、後方待機も含めますと100万人規模という大軍だったとされます。
     ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、400万の犠牲者が出たとされます。その後、戦況は38度線付近で膠着状態となりました。この碑は、アメリカを始めとする国連軍として参加した17カ国の戦没者を祀るものです。
     1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結しました。
     その後、2000年6月の南北首脳会談以降、停戦当初に比べれば融和の兆しが見えましたが、双方の和解は行われていません。未だに準戦時体制であり、国際法上の戦争は終結していません。同胞が争った戦争ですから、計り知れない傷の深さが残ってしまいました。

    <ペンタゴン>
     ペンタゴンの写真撮影は固く禁止されています。最近も、車を降りて写真撮影しようとしたアジア人が、すぐに連行されたと、ガイドさんが教えてくれました。その理由は、9・11同時多発テロにあります。その時のペンタゴンの状況から説明します。
     国防総省の本部は、五角形を意味する『ペンタゴン』で呼ばれる、5階建てで、各床に環状の廊下があります。この構造により、世界最大のオフィスビルでありながら、一番遠い所へも10分以内で移動できる構造になっています。1943年1月15日に完成しました。
     そのペンタゴンは、2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた民間航空機が衝突し、一部が崩壊、炎上しました。その後、元の石材と同じものを使用して迅速な復旧がなされました。遠くから見ても石材の色が微妙に違っていますから、修復の痕が看て取れます。
     9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けました。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊しました。77便の乗客・乗員全員が死亡するとともに189人の国防総省職員も死亡しました。
     情報が錯綜し、最初の報道は炎上というだけでしたが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によって、航空機激突の目撃が証言されました。ボーイング757機の巨体は焼失していました。
     写真を撮ってはいけないといわれても、走行中の車の中からだと大丈夫だと思って、何枚か撮影しました。同じように、荒金さんや、井上さんも撮影されていました。

    <ショッピングモールでの昼食>
     ペンタゴンの前をノンストップで通り過ぎて、ショッピングモールに到着しました。マンハッタン地区に隣接する区域です。ここで、1時間半程の自由行動となりました。昼食とショッピングです。
     食事は、各国料理の店が並んでいましたから、その中から選ぶことができました。3人の意見が一致したのが、中国料理のお店でした。焼きそばか、炒飯をメインディシュに、仕切りが付いた皿に、好みで選んだ2種類のおかずを盛って貰いました。
     問題は飲み物です。後でガイドさんにお聞きした話ですが、酒類販売の免許の費用が高いので、殆どのお店が、ソフトドリンクだけだそうです。それでも、何とか販売しているお店を探し出し、ハイネッケンの缶ビールが入手できました。食事と飲み物合わせて、3人分で28ドルでした。
     食事の後は、私たち三人も、全員の待合せの時間まで、自由行動です。専門店も入った大型ショッピングモールでしたから、見所はたくさんありました。ニューヨークより税率が低いですから、買い物にも好適でした。

    <アーリントン国立墓地>
     昼食の後の見学は、アーリントンの国立墓地でした。ポトマック川岸、バージニア州側の小高い丘の上にあります。200エーカーという広大な墓地には、独立戦争やベトナム戦争等、アメリカのために命を犠牲にした兵士達など、約26万人が眠ります。
    1963年にテキサス州ダラスで遊説中に暗殺された35代大統領J.F.ケネディも、夫人、子供と共にこの墓地に眠っています。ここには、埋葬されてからの灯された炎が、静かに燃え続けています。
     靖国参拝問題で、国立追悼施設が話題に上がり、その折に引用される1つが、アーリントン国立墓地です。ワシントンを訪れた各国首脳は、例外なくこの墓地を訪れ、無名戦士の墓等に献花をされるようです。その墓地について、少し説明をしておきます。
     墓地への埋葬の費用は、すべて国費で賄われます。その際、どの宗教を選択するかは、生前の故人と、遺族の自由です。プロテスタント、カトリック、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教、無宗教でも構いません。
     アーリントン国立墓地は、1864年、南北戦争の戦死者を葬るために設置されました。その後、1921年3月4日、アメリカの議会は、第1次世界大戦で仆れたアメリカ兵士の葬儀を、アーリントン国立墓地の追悼場で行なうことを決議しました。これがアメリカでの国家規模における無名戦士の墓の発端となりました。
     その後、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の戦死者も葬られました。イラク戦争とその後の犠牲者で、今なおその数を増しているようです。

    <スミソニアン航空宇宙博物館>
     現地ガイドさんの一番のお勧めが、このスミソニアン航空宇宙博物館でした。ガイドブックにも、スミソニアンの各種施設でも1、2位を争うと紹介してありました。夏休みに入ると、特に混み合うようです。
     無料でしたが、入場する時には、保安検査がありました。見所を教えて貰った後で、ここで2時間以上の自由行動になりました。国立美術館も時間をかけて見学したかったので、早足の見学となりました。
     飛行機から音速ジェット機までの航空機の歴史的展示や、当時のソビエトと先陣を争った、人工衛星、有人宇宙飛行等の展示は、僅かの時間を惜しんで見学しました。月の石にも直に触れることができますし、大気圏突入の際に焦げ付いた船体、ソビエト連邦がロシアに代わっての、宇宙ドッキングの展示なども見応えがあります。

    <国立美術館>
     正式名称は『National Gallery of Art』です。世界でも5指に入るといわれる収蔵品を有しています。ダ・ヴィンチから、ピカソ、ウォーホールまで、13世紀から現代までのヨーロッパ、アメリカの膨大なコレクションが展示されています。
     この日、正面玄関は閉まっていましたが、西館からの入場ができました。スミソニアン本部に属していますから、他の博物館、美術館と同様に無料開放されています。フラッシュを焚かなければ、撮影も自由です。
     印象に残った作品の中で、エル・グレコについてだけ触れておきます。昨年(2005年)2月、彼の作品が多く収蔵されている、スペインのプラド美術館でも鑑賞することができました。大原美術館にも作品があります。
     グレコは、ギリシャ領のクレタ島出身の16世紀の画家です。本名はドメニコス・テオトコプーロスです。一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン語で『ギリシャ人』を意味する通称です。
     当時ベネチア共和国の支配下にあったクレタ島で、初めにイコンを学び、後にイタリアのベネチア、ローマに渡ってティツィアーノに師事し、ベネチア派絵画を学びました。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍しました。
     彼の画は、マニエリスム、バロック様式に分類されます。暗い画面、縦に長い構図、複雑なポーズの人体などが特徴です。死後、長らく評価されませんでしたが、19世紀に再評価を受け、ピカソ等、20世紀の芸術家にも影響を与えたとされます。収蔵品は、写真編の方でご覧ください。

    <食料を買い込んで、帰路に>
     ニューヨークへの戻りの列車は、5時過ぎでした。それで、駅構内のお店で軽食を買い込んで、車中で夕食代わりにすることにしました。リカーショップもありましたから、缶ビールと、ねじ式の小瓶のワインも買い求めました。初日に比べると、1/10程の費用の夕食になりました。
     翌朝はラスベガスへの移動日ですから、ホテルへ戻って解散となりました。ホテルのバーで水割りを飲んで、この日は少し早く就寝しました。


      リンカーン記念堂で
     人民の言の葉三度繰返し歴史を語る白亜の座像

      アーリントン国立墓地で
     永遠の炎は静に燃続けテロの愚さ諭すが如し

      航空宇宙博物館で
     月面に着陸したるその昔心踊し石に触おり

      国立美術館で
     エル・グレコ展示の部屋に人影の少く吾を忘れて見入る

    【旅行時期】2006/02/23~2006/03/02
    【エリア】ワシントンD.C.
    【テーマ】
    【投稿者】旅人のくまさん

    2003年秋チベットの旅(チベット自治区)(by かときちさん)

    非暴力
    2003年秋に訪れたチベットの旅の写真をアップします。

    03年秋時点では本来ツアーのみでチベットの個人旅行が不可でしたが、実際は個人旅行でもバーチャルのツアー旅行としてアレンジしてくれる中国の代理店のWEBサイトを知り、日本からEメールで依頼して1週間程個人で旅をしました。

    ちなみにこの時の金額は、成都→ラサの片道航空券、成都空港=宿間の送迎、成都での宿(ドミトリー2泊)、チベット入域のパーミッション、ラサ→カトマンドゥ(ネパール)の片道航空券で3890元。

    成都往復ならもっと安かったと思いますが、この時自分はカトマンドゥへ抜けるルートを選択したので少し割高でした。

    ※ちなみに当時の成都→ラサの片道航空券が1270元、ラサ→カトマンドゥの片道航空券が2324元。



    チベットでは同じ代理店を使っていた成都で知り合った日本人と、ラサの宿(バナクショーホテル)で知り合った日本人と一緒に4人で4WDの車をチャーターしてラサ→シガツェ→ギャンツェ→ナンカルツェ→ヤムドク湖→カロー峠→ラサと旅をしました。


    チベットではポタラ宮前や、ギャンツェゾン、パンコル・チョルテン等のチベット寺院内でも歌いましたが、チベット寺院のお坊さんも熱心に歌を聴いてくれました。


    たかが旅行者の自分達には根深い問題等はわかりませんが、チベットを訪れた際の自分の印象では、支配層の漢民族と貧困にあえぐチベット民族という図式のようにみえ、実際にチベットを一緒に回ったチベット人ドライバーや通訳(英語)からは、自分達の生活苦の話や、漢民族に対するネガティブな話を聞かされました。


    歴史的にチベットはチベット人の土地なのに、そのチベット人がその土地で今なお虐げられ、指導者層が国外(インド)へ亡命しなくてはいけないというのは確かに尋常ではないことだと自分も思います。

    中国人(漢民族)の良い人達も沢山しっていますが、少なくともチベット問題に対する中国政府の対応には???と感じることが少なくありません。


    最近少し騒がしくなっているチベット情勢ですが、個人的には彼達が非暴力・非服従のスタンスをつらぬき続ける限り、チベット人を応援したいと思っています。

    ※詳細は以下のサイトにもアップしています。
  • http://blog.goo.ne.jp/katokitijp

  • 【旅行時期】2003/09/13~2003/09/20
    【エリア】チベット自治区
    【テーマ】ひとり旅
    【投稿者】かときち

    36朝のヴァーツラフ広場 in プラハ(by WT信さん)

    非暴力
    プラハ出発まえの朝の僅かな時間を、1ブロック隣のヴァーツラフ広場散策に出かけた。
    中央は花壇がある中央分離帯で、両脇に道路が走っている。広場というより少し広い公園道路といった感じ。

    地下鉄ムスーテク駅があり、両側はデパートやホテルがひしめくプラハ一の目抜き通りも、流石にこの時間は人影も疎らであった。

    この辺りはいわゆる新市街。

    新市街もカレル1世がプラハの街の発展を予測して開発を進めた。
    当時から道路の幅が18mから27mもあり、新市街の広さは旧市街のおよそ2倍、その規模は現在の新市街の規模と余り変わらないという。

    カレル1世はその開発拠点として、広場を3箇所設けた。馬広場、家畜広場、穀物広場。

    馬広場だった所がここヴァーツラフ広場。聖ヴァーツラフに因んで名付けられている。


    ここで起きた事柄はまだ生なましい記憶として我々にも残っている。

    1968年8月、ワルシャワ条約機構の名の下に、ロシアの戦車が当時のチェコスロヴァキア下のヴァーツラフ広場に進行。
    これに抗議するヤン・パラフ青年が、聖ヴァーツラフの騎馬像の足元で焼身自殺した。それを切っ掛けに、数人の若者が殉死。

    その事件から20年後の1989年11月、プラハ市民20万人がこの広場に集まり、非暴力の「ビロード革命」により、1948年以来初めての”共産党員でない大統領”選出に成功する。

    ここヴァーツラフ広場はチェコの人々の自由の象徴でもあるのだ。


    詳細は下記をご覧下さい。
  • http://www.geocities.jp/tshinyhp/tyuuou/frametyuuouroot.html





  • 【旅行時期】2007/09/26~2007/09/26
    【エリア】プラハ
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】WT信

    エストニア タリン 観光(by あまざけさん)

    非暴力
    約2週間で東欧をめぐろうと思い、まずはドイツのフランクフルトから飛行機でエストニアへ。
    雪が少し積もっていて寒い・・・。
    バルト三国?まったく今まで気に留めたことがなかったけれど、軽くながめようと観光。

    ガイドブックのうしろについている歴史を読んで感動。
    バルトの人々を見る目が変わった!
    ロシアから独立の際、バルト三国の首都を手をつないだ人で結んだり、非暴力で革命という歴史に驚いた。
    街にはその時の写真がパネルにしてかざってあった。

    写真はトームペア城のそばの旧市街。

    【旅行時期】2007/02/~2007/02/
    【エリア】タリン
    【テーマ】
    【投稿者】あまざけ

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