ナポレオン戦争旅行記
2008 南部アフリカの旅? 『ケープタウンは雨だった!! ロベン島 』(by カンゲンさん)
昨日、ザンビアのリビングストンからヨハネスブルグ経由でケープタウン到着、今日は絶対に行ってみたいと思っていたロベン島に行きます。
『 ロベン島 』
( 世界遺産:916 1999年 )
ロベン島(オランダ語でアザラシの島)は、面積が574ヘクタール、本土から7?沖にある小島。
この島を最初に訪れたヨーロッパ人は、1498年新たな航路を求めてる途中で寄港したヴァスコ・ダ・ガマの一向と言われている。
大航海時代になると喜望峰経由でアジアを目指した多くのヨーロッパの船が寄港した。
17世紀、オランダ東インド会社にとり重要な基地になる。オランダは植民地に反対する現地住民を拘束しこの島を流刑地とした。
18世紀末になるとヨーロッパでナポレオン戦争が勃発、インド航路の重大性を認識するイギリスがフランスの手に落ちることを危惧しケープ地方を占領、1820年以降本格的なイギリスの支配下になる。1836年からおよそ100年間は、ハンセン病患者を隔離するため使われる。
第2次世界大戦後、独立運動が始まると少数派の白人が悪名高い「アパルトヘイト(人種隔離)」制度を1948年に制定、1959年に黒人専用の刑務所として開所。
アパルトヘイト抵抗運動のシンボルであるネルソン・マンデラは、44才の1964年時に国家反逆罪終身刑を宣告され、ロベン島に収監される。1982年ケープタウン郊外のホルスモア刑務所に移監されるまでの18年間をこの島で過ごし、1989年にデクラーク大統領と会談が行われ翌1990年釈放される。
1999年12月にユネスコ世界遺産に南アフリカ最初の文化遺産として登録される。1週間後、世界中から多数の人々が参加しこれを祝ったそうです。
400年間に渡り、刑罰、隔離、投獄の島であったロベン島、人間の愚かさの象徴として後世に残すべき文化遺産と改めて実感した旅でした。
07東西ドイツ統一のシンボル・ブランデンブルグ門(by WT信さん)
都城都市だったベルリンの18箇所あった都城の門のひとつで、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により1788年から3年間かけて建設。門の上には四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた。
ベルリンに遷都するまで、プロイセン王国の首都だったブランデンブルクに通ずる門としてこの名がついた。
しかし完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。
その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ、門の上に戻された。
1868年に城壁が取り壊され、唯一残されたのがブランデンブルク門。
「ベルリン壁」によりこの門は東ベルリンの行き止まりとなったが、1989年の「ベルリンの壁崩壊」により再び門の下を通ることが出来るようになった。
今日も多くの観光客が色んな移動手段を使って、この門の下を往来していた。
ところで門の前の犀の銅像は何なんだろう?
ロストラの灯台から見る要塞と宮殿広場(by WT信さん)
サンクト・ペテルブルグは今朝も快晴。
ホテルを出たバスは逆光で暗く沈んだ宮殿広場を右に通過。
一路ロストラの赤い灯台柱が建つヴァシリエフスキー島へ。
左手に旧海軍省の建物を過ぎた所でネヴァ川に架かり、
ヴァシリエフスキー島と繋ぐのが宮殿橋。
その辺りからペトロパヴロフスク要塞が姿を現す。
朝日に輝くペトロパヴロフスク聖堂の尖塔が眩しい。
反対にエルミタージュ側は強い逆光の中。
バスは宮殿橋を渡り、ヴァシリエフスキー島の先端に建つ、
真っ赤なロストラ灯台柱を目指す。
ロストラ灯台柱でバスを降りる。
ここは岬の先端部分で、”トリェールカ”というペテルブルグの海運貿易の拠点として賑わった。
また学問の中心でもあり、"12の学院”はサンクト・ペテルブルグ大学の前身となった所。
改めてペトロパヴロフスク要塞の全貌を眺める。
ロシアが北方戦争(1700〜1721)でのスウェーデンとの戦いで勝利し、
フィンランド湾への出口を確保したこの場所に、
”青銅の騎士”の主人公ピョートル大帝は1703年5月16日要塞建設に着手。
全要塞が花崗岩で覆われたのは1940年であった。
金色に輝く尖塔を持つペトロパヴロフスク聖堂は1712年に着工。
尖塔の高さ122.5m。頂上には風向計も兼ねた金箔の天使像を備える。
ペトロパヴロフスク要塞は1度も軍事用途に使用されれることなく、
聖堂はピョートル一世を始めとする全ロシア皇帝の霊廟となった。
その一方で建設間もなくから政治犯監獄として使用され、
かのドフトエフスキーも1時期拘留されていたことがある。
この近くのお土産やで、家内は”大統領マトリョーシカ”なるものを買った。
その後バスは証券取引所橋を渡り、要塞の北側を周回し、
トロッキー橋を渡って再び宮殿広場へ。
宮殿広場の中央に建つ、先端に天子の像を持つ、高さ47.5m、重さ600tのアレクサンドル柱は
1812年のナポレオン戦争の勝利の記念碑。
北側がエルミタージュ美術館。
南側に半円形をした旧参謀本部。
中央の凱旋アーチの上にはナポレオン戦争の勝利を記念した軍馬車に乗った勝利の女神像が建つ。
エルミタージュ美術館の西側は旧海軍省の建物。
宮殿広場にはエルミタージュ美術館や宮殿の見学後三度訪れたので、
1日の内に朝と昼と夕方の3景観を味あうことが出来た。
ライン川、ロマンチック街道、アルトハイデルベルグ(by 早島 潮さん)
リューデスハイム、ザンクトゴア、ハイデルベルグ、ローテ
ンブルグ、シュパンガウ
ライン川は全長1320km、流域面積25万2000km2の国際河川である。スイス南東のアルプス山中サンゴタール峠付近に源を発し前ライン川となり後ライン川と合流してボーデン湖に流入、出口付近でライン滝を作りドイツ国内西部地域を貫流し、オランダのデルタ地帯を経て北海に注いでいる。ヨーロッパで最も重要な内陸水路であると同時に最も眺めの美しい川として知られている。特に素晴らしい眺めを誇るのはマインツ、ケルン区間の中ライン川と呼ばれる地域で風光明媚な自然や情趣溢れる古城の姿は観光客を魅了してやまない。
我々がクルージングを楽しんだのは、ワインの町として世界的に有名なリューデスハイム
からザンクト・ゴアーまでの約30kmの区間であったが、両岸は概ね山地になっておりラインシュタイン城、ライフェンシュタイン城、
ゾーネック城、ラインフェルス城、猫城、ねずみ城等の古城が建っていて周囲の緑とよく調和して美しい景観を造りだしていた。山間の傾斜面には横方向斜面に直角に畝を切られた葡萄畑が広がっており、平地には教会を中心として、一様に切り妻造りの赤い屋根と白壁の民家が集落をなしていた。
そして川にはひっきりなしに観光船や大型の貨物船が往来していて、川岸には上流起点からの距離数が一km毎に白地の標識に黒字で大きく表示されている。
山の木々は紅葉の始まっているものも散見され、天候にも恵まれ空気は爽やかで汗をかくこともない。
やがて船は有名なローレライの難所にさしかかった。
船内にはローレライのメロディーが流れだし川幅は狭まり流れも速くなる。川幅90mに狭まった所には高さ132mの何の変哲もない岩壁がそそり立っている。昔から暗礁と急流に船乗り達が難所として怖がっていた場所である。水嵩の減った時には川中から「七人の乙女」と呼ばれる危険な暗礁が姿を見せる場所だ。伝説によれば乙女達は心の冷たさのあまり岩に姿を変えられたという。
船乗り達が金髪の美しい水の精と歌声に惑わされ暗礁に乗り上げたともいうローレライを通り過ぎた所には乙女の像が建てられていた。この乙女像のある場所の対岸の平地にはキヤンピングカーが沢山駐車していて、中には机と椅子を持ち出してワインを楽しんでいる家族連れも散見された。この場所に限らず平地の空き地にはそこここにキャンピングカーの駐車が見られ野外生活を享受するドイツ人の生活のゆとりを垣間見た気がした。そんなことに思いを馳せながらハインリッヒ・ハイネの歌詞をメロディーに合わせて口ずさんでいるうちに船はいつしか終点のザンクト・ゴアーへ到着していた。この町は570年に聖人ゴアーが作った町で葡萄の栽培地としても有名である。田舎町ではあるが活気に満ちており何よりも見事だと思ったのは地上に電線も立て看板も見当たらないことだった。
午後はハイデルベルグまで戻り、ハイデルベルグ城、
アルト・ブリュッケ大学広場、騎士の館、学生牢、マルクト広場等市内観光を行った。
ハイデルベルグ市は人口13万5000人の中世の雰囲気の残る古い町である。町としての歴史は796年にベルグハイムという名の集落として登場し1196年にマルクト広場が開かれた。その後13世紀になって城の起源らしきものが出来、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した金印勅書に基づく七選帝侯に選ばれたファルツ伯が逐次城を増強したのが始まりであると考えられている。またファルツ伯の手で1386年にはドイツ最古の大学ハイデルベルグ大学が創立されている。現在でもハイデルベルグ大学は名門大学として名実ともに健在であるが、面白いことに市内にある大学の建物は各地に散在しているから纏まった大学構内というものがない。
城は後にフリードリッヒ5世がオットー館と呼ばれるドイツルネッサンス様式の建物等を増築し整備して現在の形に近いものができあがった。赤色砂岩で出来ており、自然とよく調和した美しい姿は人々の心を引きつけ、大学の町の城としてその名を知られ、町は世界中の学生達の憧れの地であった。
町には学生牢等の史跡なども残されていて、酒を飲みすぎて暴れたり喧嘩をしたりした生きのいい学生達が収監されたもののようである。学生牢からの通学も認められておりここへ収監されることはむしろ名誉なことであると考えられる風潮があったという。因みにこの大学出身者でノーベル賞の受賞者が七人いるが、そのうち三人は学生牢経験者であった。日本の旧制高等学校生達のバンカラの気風もこんなところを倣ったのかもしれない。
アルト・ブリュッケはネッカー川にかかる古い橋で入口に建つ二つの丸い塔が美しいし橋の中央あたりから仰ぎ見るハイデルベルグ城の姿も美しい。
川面では学生が八人漕ぎのボートを楽しそうに漕いでいた。そんな光景を見ているとアルト・ハイデルベルグの歌詞が自然と頭の中に浮かび、知らず知らず独り静かに口ずさんでいた。そして、遙か彼方に消え去った、古都京都における若きよき日々のことが次々と懐かしく思い出された。銭湯へ行く時や食堂へ赴く往還に何時も歌ったものである。
「遠き国より遙々と ネッカーの流れ懐かしく 岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の いと美しき花飾り
いざや入りませ我が家に されど去ります日のあらば 忘れ賜うな若き日の
ハイデルベルグの学舎の いと麗しき思い出を」
翌朝ハイデルベルグのホテルを出発し、ロマンチック街道沿いの都市ローテンブルグへ到着した。現在観光コースとして脚光を浴びているこの街道は「ローマ風の」「ロマンスの」という二様の意味を持っていて、その昔ドイツからイタリアへの通商ルートであり、紀元前後のローマ時代にはクラウディア・アウグストス街道として知られていた。
この街道は中部のビュルツブルグから南部のバイエルンを経て、アルプスの麓にあるオーストリアとの国境の町フッセンまで全長340kmに及んでいる街道に沿って、ワインで生計を立てている小さな村、小綺麗な木組の家並の町自由都市、古城や要塞、由緒ある寺院、庭園や豪商の館等が中世の面影をそのまま留めていて旅情をそそる。内陸部にありナポレオン戦争以降流通の中心から外れ、近代化の波に洗われることもなく、両世界大戦後の経済発展にも取り残されて陸の孤島と化していたこの地方も、発展の遅れたことが幸いして貴重な観光資源が良い保存状態で維持され、今ではドイツで最も人気のある観光地として蘇っているのである。
ローテンブルグは
四方にバイエルンの森と高原が広がっていて、中世の町並みがあたかも凍結されたかの如く、ほぼ完全に残されている城郭都市である。町の歴史は紀元前五百年頃ケルト人が入植した頃から始まり、1142年にドイツ皇帝の家系に連なるホーエンシュタウフェン家が居城をこの地に置いた頃から発展しだした。やがて市場が出来、城壁が築かれ十三世紀後半には市域の発展とともに城壁も第二、第三の城壁が増築された。現在も市の発展を物語る三つの城壁が龍の落とし子型に残されていて城壁の回廊を歩きながら市内を見学することも出来る。
街の中には14世紀の市庁舎、聖ヤコブ教会、マルクト広場の木組みの建物ブリュック公園等の由緒ある建物や史跡が良好な保存状態で多数残されているブリュック公園は最初に城が築かれた所であるし、市庁舎の鐘楼に登れば中世風の街中を俯瞰することができる。観光客に最も人気のあるのは、市庁舎広場の建物の壁面にある仕掛け時計である。
この日はアルプスの麓で、オーストリヤ国境に近いシュバンガウの村のホテルで宿泊した。辺境の田舎村という雰囲気が濃厚に漂っている村で、ノイシュバンシュタイン城やホーエンシュバンガウ城を訪れる観光客やスキー客、登山客が利用するらしく、民宿風のホテルが何軒も立ち並び牛小屋や蹄鉄屋も民宿と軒を接して建っている。民宿の窓という窓には美しい花が鉢うえされて吊るされておりとても美しい。ドイツ人に限らず、なべてヨーロッパの人は壁面や窓に花を飾るのが好きなようだ。道路には湯気の上がる牛の糞も落ちている。ホテル前の道路からは、小さくノイシュバンシュタイン城も望見できるロケーションである。
朝ノイシュバンシュタイン城を見学にいった。遠くからではその黒っぽい尖塔の屋根が山の色に溶け込んで、白壁だけが長方形に見えていた城だが近づくにつれ、次第にその全容を現しだした。沢山の尖塔を持つ城の容姿はいかにもメルヘンチックでディズニーランドにある城のように見える。しかし本当のところはこの城を模してディズニーランドの城が作られたということであるし、バイエルン国王ルードウィヒ二世がこの城の建設を決意した時の意図がロマンチックな城を建てようということであったからロマンチックでメルヘンチックなことこそがこの城の本質なのである。
この城の建設は1869年から1886年にかけて莫大な資金を投じて建設工事が行われたが遂に完成することなく、国王のルードウィッヒが狂人として王座を追われ、僅か三日後の1886年6月13日にミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに謎の死を遂げたので、工事は中断され城として実用に供されることもなかった。
作曲家リヒャルト・ワグナーのスポンサーであり、熱烈な崇拝者でもあったルードウィッヒはワグナーが作曲した「ニーベルンゲンの指輪」「トリスタンとイゾルデ」に因んだ色々な場面を絵画として描かせ室内の装飾にふんだんに用いている。
城の中の装飾も贅を尽くした豪華なものであるが、それにもまして城の建てられている地理的な位置が素晴らしい。城の背景にはアルプスの連山や湖や山の木々を巧みに配して自然とうまく調和させ、とても優雅で美しい光景を作りだしている。特に渓谷にかかるマリエン橋から眺める姿が最も良い。
折りから好天に恵まれ空気は乾燥していて爽やかであり、空は抜けるように青く素晴らしい景観であった。
悲劇的な運命を終えたルードウィッヒが残したこの文化遺産は、今では世界で最も美しい城として世界中の観光客を集めている。
【旅行時期】2000/09/26~2000/10/04
【エリア】
ドイツ
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮
大陸横断【14】歴史の波に揉まれたルイジアナ(by ソフィさん)
ミシシッピー河の河口に近い、ルイジアナの大湿原。
日本本州の半分以上の面積と広い(全米31位)この州は、一番高いところで標高163m。
平均標高が30mという、我々の想像を絶する平らな土地だ。(最低マイナス2.5m)
最初にミシシッピー河口に到達したヨーロッパ人は、スペイン人だった。(1528年)
コペルニクスの地動説(1543年)、日本の鉄砲伝来(1543年)より15年も古い。
その後カナダから南下したフランス人が、当時のフランス国王ルイ14世(太陽王)に因んでルイジアナと命名(1682年)し、植民を行う。
その頃のルイジアナは、カナダからミシシッピー河口に至る、現アメリカ本土の3分の1に達する、広大な領域である。
ミシシッピー河は全長3,779キロ(支流のミズーリ河の源泉から数えて6,019 キロ)、日本列島に匹敵する長さで、アマゾン(6,300キロ)、ザイール(4,370キロ)と共に、世界三大河川。
特徴は、水源の標高が僅か450mと、非常に平らな河であることだ。
その後フランスは、当時のルイジアナの一部をカナダへ、残りをスペインへ割譲するが、スペイン領はスペインの要請で1800年フランスが買い戻し、1803年に1,500万ドルでアメリカに売られた。
そのために、それまでのアメリカ領土は、一挙に2倍となった。
ナポレオン戦争のさなかである。
その間、カナダから移住したフランス人は多く、今なお住民の16%は「ケイジャン」と呼ばれるフランス系で、5%はフランス語(の方言)を話している。
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ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう, 英:The Napoleonic Wars, 仏:Guerres napoléoniennes, 1803年-1815年)は、ナポレオン・ボナパルト支配下のフランスと、イギリス帝国 イギリス、オーストリア帝国 オーストリア、ロシア帝国 ロシア、プロイセン王国 プロイセンなどのヨーロッパ諸国との戦争である。
ナポレオン戦争はフランス革命後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、半島戦争と1812年ロシア戦役 ロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日のパリ条約 (1815年) 第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結。戦争の結果、ナポレオンは失脚した。
ナポレオン戦争の詳細