ナポレオン戦争旅行記
2008 南部アフリカの旅⑥ 『ケープタウンは雨だった!! ロベン島 』(by カンゲンさん)
昨日、ザンビアのリビングストンからヨハネスブルグ経由でケープタウン到着、今日は絶対に行ってみたいと思っていたロベン島に行きます。
『 ロベン島 』
( 世界遺産:916 1999年 )
ロベン島(オランダ語でアザラシの島)は、面積が574ヘクタール、本土から7㎞沖にある小島。
この島を最初に訪れたヨーロッパ人は、1498年新たな航路を求めてる途中で寄港したヴァスコ・ダ・ガマの一向と言われている。
大航海時代になると喜望峰経由でアジアを目指した多くのヨーロッパの船が寄港した。
17世紀、オランダ東インド会社にとり重要な基地になる。オランダは植民地に反対する現地住民を拘束しこの島を流刑地とした。
18世紀末になるとヨーロッパでナポレオン戦争が勃発、インド航路の重大性を認識するイギリスがフランスの手に落ちることを危惧しケープ地方を占領、1820年以降本格的なイギリスの支配下になる。1836年からおよそ100年間は、ハンセン病患者を隔離するため使われる。
第2次世界大戦後、独立運動が始まると少数派の白人が悪名高い「アパルトヘイト(人種隔離)」制度を1948年に制定、1959年に黒人専用の刑務所として開所。
アパルトヘイト抵抗運動のシンボルであるネルソン・マンデラは、44才の1964年時に国家反逆罪終身刑を宣告され、ロベン島に収監される。1982年ケープタウン郊外のホルスモア刑務所に移監されるまでの18年間をこの島で過ごし、1989年にデクラーク大統領と会談が行われ翌1990年釈放される。
1999年12月にユネスコ世界遺産に南アフリカ最初の文化遺産として登録される。1週間後、世界中から多数の人々が参加しこれを祝ったそうです。
400年間に渡り、刑罰、隔離、投獄の島であったロベン島、人間の愚かさの象徴として後世に残すべき文化遺産と改めて実感した旅でした。
07東西ドイツ統一のシンボル・ブランデンブルグ門(by WT信さん)
都城都市だったベルリンの18箇所あった都城の門のひとつで、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により1788年から3年間かけて建設。門の上には四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた。
ベルリンに遷都するまで、プロイセン王国の首都だったブランデンブルクに通ずる門としてこの名がついた。
しかし完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。
その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ、門の上に戻された。
1868年に城壁が取り壊され、唯一残されたのがブランデンブルク門。
「ベルリン壁」によりこの門は東ベルリンの行き止まりとなったが、1989年の「ベルリンの壁崩壊」により再び門の下を通ることが出来るようになった。
今日も多くの観光客が色んな移動手段を使って、この門の下を往来していた。
ところで門の前の犀の銅像は何なんだろう?
ロストラの灯台から見る要塞と宮殿広場(by WT信さん)
サンクト・ペテルブルグは今朝も快晴。
ホテルを出たバスは逆光で暗く沈んだ宮殿広場を右に通過。
一路ロストラの赤い灯台柱が建つヴァシリエフスキー島へ。
左手に旧海軍省の建物を過ぎた所でネヴァ川に架かり、
ヴァシリエフスキー島と繋ぐのが宮殿橋。
その辺りからペトロパヴロフスク要塞が姿を現す。
朝日に輝くペトロパヴロフスク聖堂の尖塔が眩しい。
反対にエルミタージュ側は強い逆光の中。
バスは宮殿橋を渡り、ヴァシリエフスキー島の先端に建つ、
真っ赤なロストラ灯台柱を目指す。
ロストラ灯台柱でバスを降りる。
ここは岬の先端部分で、”トリェールカ”というペテルブルグの海運貿易の拠点として賑わった。
また学問の中心でもあり、"12の学院”はサンクト・ペテルブルグ大学の前身となった所。
改めてペトロパヴロフスク要塞の全貌を眺める。
ロシアが北方戦争(1700~1721)でのスウェーデンとの戦いで勝利し、
フィンランド湾への出口を確保したこの場所に、
”青銅の騎士”の主人公ピョートル大帝は1703年5月16日要塞建設に着手。
全要塞が花崗岩で覆われたのは1940年であった。
金色に輝く尖塔を持つペトロパヴロフスク聖堂は1712年に着工。
尖塔の高さ122.5m。頂上には風向計も兼ねた金箔の天使像を備える。
ペトロパヴロフスク要塞は1度も軍事用途に使用されれることなく、
聖堂はピョートル一世を始めとする全ロシア皇帝の霊廟となった。
その一方で建設間もなくから政治犯監獄として使用され、
かのドフトエフスキーも1時期拘留されていたことがある。
この近くのお土産やで、家内は”大統領マトリョーシカ”なるものを買った。
その後バスは証券取引所橋を渡り、要塞の北側を周回し、
トロッキー橋を渡って再び宮殿広場へ。
宮殿広場の中央に建つ、先端に天子の像を持つ、高さ47.5m、重さ600tのアレクサンドル柱は
1812年のナポレオン戦争の勝利の記念碑。
北側がエルミタージュ美術館。
南側に半円形をした旧参謀本部。
中央の凱旋アーチの上にはナポレオン戦争の勝利を記念した軍馬車に乗った勝利の女神像が建つ。
エルミタージュ美術館の西側は旧海軍省の建物。
宮殿広場にはエルミタージュ美術館や宮殿の見学後三度訪れたので、
1日の内に朝と昼と夕方の3景観を味あうことが出来た。
ライン川、ロマンチック街道、アルトハイデルベルグ(by 早島 潮さん)
リューデスハイム、ザンクトゴア、ハイデルベルグ、ローテ
ンブルグ、シュパンガウ
ライン川は全長1320km、流域面積25万2000km2の国際河川である。スイス南東のアルプス山中サンゴタール峠付近に源を発し前ライン川となり後ライン川と合流してボーデン湖に流入、出口付近でライン滝を作りドイツ国内西部地域を貫流し、オランダのデルタ地帯を経て北海に注いでいる。ヨーロッパで最も重要な内陸水路であると同時に最も眺めの美しい川として知られている。特に素晴らしい眺めを誇るのはマインツ、ケルン区間の中ライン川と呼ばれる地域で風光明媚な自然や情趣溢れる古城の姿は観光客を魅了してやまない。
我々がクルージングを楽しんだのは、ワインの町として世界的に有名なリューデスハイム
からザンクト・ゴアーまでの約30kmの区間であったが、両岸は概ね山地になっておりラインシュタイン城、ライフェンシュタイン城、
ゾーネック城、ラインフェルス城、猫城、ねずみ城等の古城が建っていて周囲の緑とよく調和して美しい景観を造りだしていた。山間の傾斜面には横方向斜面に直角に畝を切られた葡萄畑が広がっており、平地には教会を中心として、一様に切り妻造りの赤い屋根と白壁の民家が集落をなしていた。
そして川にはひっきりなしに観光船や大型の貨物船が往来していて、川岸には上流起点からの距離数が一km毎に白地の標識に黒字で大きく表示されている。
山の木々は紅葉の始まっているものも散見され、天候にも恵まれ空気は爽やかで汗をかくこともない。
やがて船は有名なローレライの難所にさしかかった。
船内にはローレライのメロディーが流れだし川幅は狭まり流れも速くなる。川幅90mに狭まった所には高さ132mの何の変哲もない岩壁がそそり立っている。昔から暗礁と急流に船乗り達が難所として怖がっていた場所である。水嵩の減った時には川中から「七人の乙女」と呼ばれる危険な暗礁が姿を見せる場所だ。伝説によれば乙女達は心の冷たさのあまり岩に姿を変えられたという。
船乗り達が金髪の美しい水の精と歌声に惑わされ暗礁に乗り上げたともいうローレライを通り過ぎた所には乙女の像が建てられていた。この乙女像のある場所の対岸の平地にはキヤンピングカーが沢山駐車していて、中には机と椅子を持ち出してワインを楽しんでいる家族連れも散見された。この場所に限らず平地の空き地にはそこここにキャンピングカーの駐車が見られ野外生活を享受するドイツ人の生活のゆとりを垣間見た気がした。そんなことに思いを馳せながらハインリッヒ・ハイネの歌詞をメロディーに合わせて口ずさんでいるうちに船はいつしか終点のザンクト・ゴアーへ到着していた。この町は570年に聖人ゴアーが作った町で葡萄の栽培地としても有名である。田舎町ではあるが活気に満ちており何よりも見事だと思ったのは地上に電線も立て看板も見当たらないことだった。
午後はハイデルベルグまで戻り、ハイデルベルグ城、
アルト・ブリュッケ大学広場、騎士の館、学生牢、マルクト広場等市内観光を行った。
ハイデルベルグ市は人口13万5000人の中世の雰囲気の残る古い町である。町としての歴史は796年にベルグハイムという名の集落として登場し1196年にマルクト広場が開かれた。その後13世紀になって城の起源らしきものが出来、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した金印勅書に基づく七選帝侯に選ばれたファルツ伯が逐次城を増強したのが始まりであると考えられている。またファルツ伯の手で1386年にはドイツ最古の大学ハイデルベルグ大学が創立されている。現在でもハイデルベルグ大学は名門大学として名実ともに健在であるが、面白いことに市内にある大学の建物は各地に散在しているから纏まった大学構内というものがない。
城は後にフリードリッヒ5世がオットー館と呼ばれるドイツルネッサンス様式の建物等を増築し整備して現在の形に近いものができあがった。赤色砂岩で出来ており、自然とよく調和した美しい姿は人々の心を引きつけ、大学の町の城としてその名を知られ、町は世界中の学生達の憧れの地であった。
町には学生牢等の史跡なども残されていて、酒を飲みすぎて暴れたり喧嘩をしたりした生きのいい学生達が収監されたもののようである。学生牢からの通学も認められておりここへ収監されることはむしろ名誉なことであると考えられる風潮があったという。因みにこの大学出身者でノーベル賞の受賞者が七人いるが、そのうち三人は学生牢経験者であった。日本の旧制高等学校生達のバンカラの気風もこんなところを倣ったのかもしれない。
アルト・ブリュッケはネッカー川にかかる古い橋で入口に建つ二つの丸い塔が美しいし橋の中央あたりから仰ぎ見るハイデルベルグ城の姿も美しい。
川面では学生が八人漕ぎのボートを楽しそうに漕いでいた。そんな光景を見ているとアルト・ハイデルベルグの歌詞が自然と頭の中に浮かび、知らず知らず独り静かに口ずさんでいた。そして、遙か彼方に消え去った、古都京都における若きよき日々のことが次々と懐かしく思い出された。銭湯へ行く時や食堂へ赴く往還に何時も歌ったものである。
「遠き国より遙々と ネッカーの流れ懐かしく 岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の いと美しき花飾り
いざや入りませ我が家に されど去ります日のあらば 忘れ賜うな若き日の
ハイデルベルグの学舎の いと麗しき思い出を」
翌朝ハイデルベルグのホテルを出発し、ロマンチック街道沿いの都市ローテンブルグへ到着した。現在観光コースとして脚光を浴びているこの街道は「ローマ風の」「ロマンスの」という二様の意味を持っていて、その昔ドイツからイタリアへの通商ルートであり、紀元前後のローマ時代にはクラウディア・アウグストス街道として知られていた。
この街道は中部のビュルツブルグから南部のバイエルンを経て、アルプスの麓にあるオーストリアとの国境の町フッセンまで全長340kmに及んでいる街道に沿って、ワインで生計を立てている小さな村、小綺麗な木組の家並の町自由都市、古城や要塞、由緒ある寺院、庭園や豪商の館等が中世の面影をそのまま留めていて旅情をそそる。内陸部にありナポレオン戦争以降流通の中心から外れ、近代化の波に洗われることもなく、両世界大戦後の経済発展にも取り残されて陸の孤島と化していたこの地方も、発展の遅れたことが幸いして貴重な観光資源が良い保存状態で維持され、今ではドイツで最も人気のある観光地として蘇っているのである。
ローテンブルグは
四方にバイエルンの森と高原が広がっていて、中世の町並みがあたかも凍結されたかの如く、ほぼ完全に残されている城郭都市である。町の歴史は紀元前五百年頃ケルト人が入植した頃から始まり、1142年にドイツ皇帝の家系に連なるホーエンシュタウフェン家が居城をこの地に置いた頃から発展しだした。やがて市場が出来、城壁が築かれ十三世紀後半には市域の発展とともに城壁も第二、第三の城壁が増築された。現在も市の発展を物語る三つの城壁が龍の落とし子型に残されていて城壁の回廊を歩きながら市内を見学することも出来る。
街の中には14世紀の市庁舎、聖ヤコブ教会、マルクト広場の木組みの建物ブリュック公園等の由緒ある建物や史跡が良好な保存状態で多数残されているブリュック公園は最初に城が築かれた所であるし、市庁舎の鐘楼に登れば中世風の街中を俯瞰することができる。観光客に最も人気のあるのは、市庁舎広場の建物の壁面にある仕掛け時計である。
この日はアルプスの麓で、オーストリヤ国境に近いシュバンガウの村のホテルで宿泊した。辺境の田舎村という雰囲気が濃厚に漂っている村で、ノイシュバンシュタイン城やホーエンシュバンガウ城を訪れる観光客やスキー客、登山客が利用するらしく、民宿風のホテルが何軒も立ち並び牛小屋や蹄鉄屋も民宿と軒を接して建っている。民宿の窓という窓には美しい花が鉢うえされて吊るされておりとても美しい。ドイツ人に限らず、なべてヨーロッパの人は壁面や窓に花を飾るのが好きなようだ。道路には湯気の上がる牛の糞も落ちている。ホテル前の道路からは、小さくノイシュバンシュタイン城も望見できるロケーションである。
朝ノイシュバンシュタイン城を見学にいった。遠くからではその黒っぽい尖塔の屋根が山の色に溶け込んで、白壁だけが長方形に見えていた城だが近づくにつれ、次第にその全容を現しだした。沢山の尖塔を持つ城の容姿はいかにもメルヘンチックでディズニーランドにある城のように見える。しかし本当のところはこの城を模してディズニーランドの城が作られたということであるし、バイエルン国王ルードウィヒ二世がこの城の建設を決意した時の意図がロマンチックな城を建てようということであったからロマンチックでメルヘンチックなことこそがこの城の本質なのである。
この城の建設は1869年から1886年にかけて莫大な資金を投じて建設工事が行われたが遂に完成することなく、国王のルードウィッヒが狂人として王座を追われ、僅か三日後の1886年6月13日にミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに謎の死を遂げたので、工事は中断され城として実用に供されることもなかった。
作曲家リヒャルト・ワグナーのスポンサーであり、熱烈な崇拝者でもあったルードウィッヒはワグナーが作曲した「ニーベルンゲンの指輪」「トリスタンとイゾルデ」に因んだ色々な場面を絵画として描かせ室内の装飾にふんだんに用いている。
城の中の装飾も贅を尽くした豪華なものであるが、それにもまして城の建てられている地理的な位置が素晴らしい。城の背景にはアルプスの連山や湖や山の木々を巧みに配して自然とうまく調和させ、とても優雅で美しい光景を作りだしている。特に渓谷にかかるマリエン橋から眺める姿が最も良い。
折りから好天に恵まれ空気は乾燥していて爽やかであり、空は抜けるように青く素晴らしい景観であった。
悲劇的な運命を終えたルードウィッヒが残したこの文化遺産は、今では世界で最も美しい城として世界中の観光客を集めている。
【旅行時期】2000/09/26~2000/10/04
【エリア】
ドイツ
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮
人類の至宝エルミタージュ美術館(by 早島 潮さん)
サンクト・ペテルブルグ
2000年10月15日~10月16日
ヘルシンキ中央駅から6時半発のサンクトペテルブルグ行きシベリュウス号に乗るために駅裏口から入場した。戸外はまだ真っ暗である。プラットフォームまで乗り入れてきた自動車からポーターが荷物を列車内の網棚へ次々 に収めていく。スーツケースが網棚にずらりと並んだ光景は壮観であった。定刻になるとベルも鳴らずに列車は走りだした。
窓外は暗いが目をよく凝らしていると針葉樹の林が黒々としているのが次第に判別できるようになってきた。時計を見ると7時40分である。やっと空が白みだしたようである。8時だというのに霧が立ち込めているのかどんよりと薄暗くまるで太陽がでているという感じがない。通り過ぎる村落には心なしか哀愁が漂っているように見える。窓外に広がる景色は白樺や松、杉が入り交じった林ばかりである。たまに農家が散見されるが切り妻造りの木造家屋で小口の面には上方に一つと下方に三つ窓が設けられているのが多い。
フインランドとロシアとの国境線沿いの駅ヴァイニカラではロシアの係員が乗り込んできて顔写真と見比べながら一人一人パスポートを回収していく。同時に携行通貨を記入した書類をチェックしていく。入国時に携行していた通貨が出国時に増えていると問題になるらしい。外貨をロシア国内へ落としていけということなのか。長時間待たされた後、パスポーが返されやっと出発することが出来た。
国境を過ぎると今まで快調に走行していた電車は何故かそのスピードを落としてノロノロ運転に変わる。そしてペテルブルグ近郊に近づくと再び速度が上がる。添乗員が毎回同じことが繰り返されると言明しているから、今回だけの現象ではないらしい。理由はよく判らないと言うが、おそらく遙かな田舎の路線区までは十分な補修予算が廻らず、線路のメインテナンスが十分出来ていないので安全確保上スピードダウンしているのであろう。なにしろつい先日潜水艦の沈没事件を引き起こして世界の耳目を集めたばかりの国柄である。ペテルブルグ近郊の白樺林には立ち枯れになったためなのか何本もの倒木が醜い姿を晒しているのがそちこちに散見される。
ペトルブルグ駅には13時30分に到着した。この駅を改札のないまま表に出ると美しい町並みがいきなり目に飛び込んでくるが、よく見るとペンキが剥げたままになっていたり、壁が剥落したままになっている建物がかなり目につく。通りを走行している市電やバス、自動車の車体が古くなって傷んでいるのも目について痛々しい。扉などは下方部分に赤錆がついていて、体裁とか乗客の乗り心地などには一切お構いなく、乗物は動きさえすれば運行させるのだという当局の管理姿勢が窺われる。
昼食には地酒を飲んでみようとウォッカを注文した。嬉しいことに米ドルが使えるという。ヘルシンキのレストランでは現地通貨しか使えなかったのに、ここではルーブルよりもむしろ米ドルのほうが喜ばれる。
そして何よりも驚いたのは、食事が終わりに近づくとウエイターやウエイトレスがポケットからキャビアの瓶詰めやマトリョーシカ人形等を取り出して勧めるのである。彼らは公務員の筈なのに悪びれた様子も見せず、また同僚に気兼ねすることもなく、堂々と販売活動を始めたのである。レストランが企業体の業務の一端として従業員に土産物の販売を命じているのか単なる従業員個人としての内職なのか判然としないがウエイターやウエイトレスから商品を売りつけられたのは、海外旅行をしていて初めての経験であった。
自国通貨よりもドルの方が喜ばれ、従業員が職場で内職をして平然としている国。大国ロシアという国は一体どうなっているのかという驚きの連続であった。
市場競争原理を導入した国の経済改革推進策の具体例の一つ、即ちレストランという経営体が組織ぐるみで展開している観光客に対する拡販運動であると信じたいが、そうだとすればお客の心理を全然理解していないこと甚だしいものがある。もしも彼等が販売しているキャビアが巷間噂される、調理場から横流しされたものであったとしたらこの国のモラルと職場規律は乱れに乱れているというしかない。
サンクト・ペトルブルグの町はロシアの皇帝ピョートル大帝が北方戦争(1700~1721) でスウェーデンの侵略を防ぐためにフィンランド湾に面する低湿地に数万人の農奴を使って要塞の建設を始めたことがその紀元となっている。1703年にペトロパブロフスク要塞が完成するとともに町は完成した。
ピョートル大帝は対スウェーデン戦に勝ってからバルト海への出口を確保するために、この地に港を建設し1712年に首都を移した。爾来「西方への窓」としてロシアと西欧を結び付ける役割を果たす政治、経済、文化の中心地として発展した。デカブリストの乱(1825) 、血の日曜日(1905) 、二月革命・十月革命(1917)等革命運動の中心地ともなった。 第二次世界大戦では3年余にわたる激戦の末ドイツ軍の攻囲を退けた。首都モスコーに対して現在も文化の中心地をもって任じている。
食後、市内観光で廻った所は次のようなものである。
一.イサク広場とイサク聖堂。
世界で三番目に大きな聖堂と言われていて、その大きさは長さ111.2 m幅97.6m、高さ97.6mで一万四千人を収容できる規模であるという。建築には1818年より40年間が費やされ、難工事であった。低湿地にこれだけの規模の建物を建てるのだから6mの長さの杭を新旧二万四千本が打ち込まれている。この教会は高さ三十階建てのビルにも相当し、金色に輝くドームとともにその威容を誇って屹立している。寺院正面の広場がイサク広場でこの広場の中央にはニコライ1世の馬上像が建っている。デカブリストの反乱を鎮圧して即位し秘密警察と過酷な刑罰をもって自由思想を弾圧し、ツァーリズムを強化した皇帝として知られている。
二.デカブリスト広場
ネヴァ川の左岸に黄色い旧海軍省の建物が建っていてその前にある広場がデカブリスト広場である。デカブリストとは12月党員という意味であり、1825年12月に専制政治と農奴制の廃止をめざして蜂起した革命家達のことであるが、蜂起の中心になったのは祖国戦争(対ナポレオン戦争のこと)に参加し西欧の自由思想にふれた貴族出身の青年将校達であった。以後ロシアにおける革命運動の出発点となる蜂起であった。蜂起はこの地とキエフでそれぞれ14日と28日に行われたがいずれも鎮圧され、579人が起訴され内五人が絞首刑となり残りはシベリアの地へ流刑となった。
三 スモーリヌイ修道院。
ネヴァ川河畔の一角に白色とコバルト色のツートンカラーの華麗でお洒落な装いの修道院と寄宿学校がある。この学校は19世紀始めにエカテリーナ2世によって貴族の令嬢達の女学校として建てられたものであるが、1917年十月革命の際には、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、10月25日ソビエット政権樹立宣言が行われた場所としても有名である。
四.マリインスキー劇場
通称マリインカと呼ばれているサンクト・ペテロブルグ随一のバレェ・オペラ劇場で、その名はモスコーのボリショイ劇場とともに世界に知られている。その紀元はこの場所にサーカス劇場が建てられたことから始まる。1859年の火災の後に再建された劇場は皇帝アレキサンドル2世の妻の名をとってマリインスキー劇場となった。淡い緑色と白色のツートンカラーの建物は美しい。ウエッジ・ウッドの焼き物で造った建物のようにさえ見える。
翌朝十時の出発でエルミタージュ美術館へ向かった。美術館は十時半の開館であるが門前には既に学童達が先生に引率されて賑やかに囀りながらたむろしていた。
エルミタージュ美術館は冬宮、大エルミタージュ、小エルミタージュ 新エルミタージュ、そしてエルミタージュ劇場の五つの部分から構成されており、150年かかって完成された建築複合体である。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」という意味であるが、この建築複合体は元来、歴代皇帝の住まいであるとともに皇帝の私有美術館となっていたものを革命後国立美術館に転用し公開されたものである。
エルミタージュのコレクションは女>帝エリザベータによって始められ、その後エカテリーナ2世は西欧から4,000 点以上もの絵画を買い集めたといわれている。現在のコレクションは三百万点に及ぶといわれ、展示は十部門に別れて展示されていて逸品揃いである。 限られた時間内に全コレクションを鑑賞することは到底不可能なので近代の西洋絵画に焦点を絞ってみて廻った。画家の名前だけを拾ってみても次のような豪華さである。
1)ルネッサンスの時代のシモーネ・マネチーニ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ビンチ、ジョルジョーネ、ティティアーノ、ラファエルロ等
2)フランドル派のルーベンス、フランス・スネイデル等。
3)オランダ派のヴァン・ダイク、ウイレム・ヘダ、ゲラルド・テルボルフ、ヤン・ステーン、フランス・メハルス、レンブラント等
4)スペイン派のエル・グレコ、フランチェスコ・スルバラン、ディエゴ・ ベラスケス、ハルトロメ・ムリリョ、フランシスコ・ゴヤ等
5)印象派のマネ、モネ、ピサロ、ルノアール、シスレー、ドガ等。
6)新印象派のスーラ、シニャック等。
7)後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等。
8)その他ピカソ、マチス、カンジンスキー等
与えられた僅か2時間ほどはあっという間に消えていた。しかしながら名作の数々に圧倒されて美術館を出たときにはどっと疲労感が体内を駆けめぐった駆け足で瞥見しただけに終わってしまったが、室内の装飾や天井の絵画室内に配置された贅を尽くした調度品の数々、豪華なシャンデリア等いずれもそれぞれに故事来歴のある逸品揃いでまさに人類の至宝を集めた、再度訪問してみたい魅力溢れる美術館であった。
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「ナポレオン戦争全史」 松村劭・著 原書房・出版 『ナポレオンのとりわけ戦争を知るには最適本』 '??、世界史世界史と叫んでいる割には、フランス史というか、 ナポレオンについて、殆ど知らなかったので読んでみました。 ...

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■ いや向こうにも ナポレオン戦争 ヲタ がいるんだろうけどさ 00:20 以前「所詮歴史好きなんて奴は大概が戦国幕末戦争好きに過ぎない」ということを書いた。 新選組 のメンバーについて細かな知識を持っているくせに, 律令 体制に ...

ナポレオン戦争とは?
ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう, 英:The Napoleonic Wars, 仏:Guerres napoléoniennes, 1803年-1815年)は、ナポレオン・ボナパルト支配下のフランスと、イギリス帝国 イギリス、オーストリア帝国 オーストリア、ロシア帝国 ロシア、プロイセン王国 プロイセンなどのヨーロッパ諸国との戦争である。
ナポレオン戦争はフランス革命後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、半島戦争と1812年ロシア戦役 ロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日のパリ条約 (1815年) 第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結。戦争の結果、ナポレオンは失脚した。
ナポレオン戦争の詳細